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甲斐右膳父子墓
 ( かいうぜんふしのはか )

指定者
種別 史跡
指定年月日 S9.4.17
所在地 西米良村大字越野尾字小春135-2
 幕末の尊皇攘夷運動(そんのうじょういうんどう)の気運が高まる頃、米良(めら)山(現西米良村)の領主、米良則忠は先祖の菊池氏が尊皇派であったことを強く意識するようになり、尊攘派の中心であった鹿児島藩との関係を強めていくことになる。
米良則忠の命を受けた甲斐右膳は、文久3(1863)年4月に京都に行き、米良氏の上京の勅書を得ることに成功し、米良山へ帰ってきて、米良要人、秀一郎らと共に再び京都へ発った。京都では天皇の大和(奈良)行幸に随従した。
 当時の米良山を支配していた人吉藩は、米良氏の一連の動きを知り米良則忠を捕らえ、米良山にも派兵を行い、甲斐右膳父子や米良要人・秀一郎を捕らえ人吉へ護送した。その後、米良則忠と要人、秀一郎らは解放されたが、甲斐右膳父子は獄死した。
甲斐右膳父子の墓は、西米良村越野尾にある児原稲荷神社に祀られている。

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