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佐土原城跡

 ( さどわらじょうあと )

指定者
種別 史跡
指定年月日 H16.9.30
所在地 宮崎市佐土原町上田島字追手1327番ほか
 佐土原城周辺一帯は、鎌倉時代以降、伊東氏の一族である田島氏や工藤氏が支配していた。戦国時代になり、伊東氏が田島氏を滅ぼし佐土原城に入城した。佐土原城が最盛期を迎えるのは伊東義祐の時で、城の規模が拡大し日向の中心的城館となった。
 天正5(1577)年に伊東氏が島津氏に敗れ豊後(大分県)に逃れてからは島津氏が居城とした。関ヶ原の合戦後、佐土原城とその周辺は一時、天領となったが慶長8(1603)年に島津以久が3万石の領主となってからのち明治はじめまで地方支配の拠点として機能した。
 城は、明治時代になり拠点としての機能を失って後、堀なども埋められて畑や水田として利用されていた。 平成元年から始まった発掘調査により二の丸御殿跡等が確認され、御殿を一部復元した「鶴松館」が建てられている。また、山上の本丸も発掘調査により天守台が確認され、絵図に描かれている三層の天守が存在した可能性が出てきた。
 二の丸御殿跡の発掘調査では、14世紀から19世紀にかけての陶磁器や瓦、堀底幅約15mの堀跡、建物跡や井戸等の遺構が確認されている。山上の天守台が確認できた本丸では、金箔鯱瓦を含む瓦や陶磁器が出土した。
 このように、佐土原城は中世から明治初期にいたるまで当地域支配の拠点として使用されてきた。
※佐土原城は、明治3年最後の城主島津忠高のときに広瀬の陣屋に政庁を移して廃城となった。広瀬陣屋は、明治4年の廃藩置県で取り壊された。

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