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僧胤康関係資料

 ( そういんこうかんけいしりょう )

指定者
種別 有形文化財
指定年月日 H16.3.29
所在地 延岡市北方町子1752番地(慈眼禅寺)
 慈眼寺の僧胤康は、文政4年(1821)武蔵国豊嶋郡赤塚村に生まれ、同村松月院の住職大隣を師として出家、大隣が生国肥後へ帰り、天保6年(1835)慈眼寺へ住職として入るのに同行した。この頃は定康と、また彭康とも称した。大隣が万延2年(1861)病のため隠居した際、胤康は和尚の資格を有しなかったので、慈眼寺の看主になった。
 胤康には岡藩士に兵学の門弟がおり、文久2年(1862)4月の寺田屋騒動で鎮圧される尊皇攘夷急進派に加わっていた小河弥右衛門一敏とも関わっていた。そのため同年3月、延岡藩により「御不審之筋有之」として捕えられ、老中の指示により元治2年(1865)京都町奉行所へ引き渡された。慶応2年(1866)獄死したと伝えられる。
 胤康の動静と主張は、その召捕りを伝える内藤家文書だけでなく、小河家所蔵文書等にも記述が見られ、胤康の実像と内外に及ぼした影響や評価はこれらの史料類によって今後解明されるべきである。一方慈眼寺に一括所蔵されているものは、捕縛直前までの自筆日記、岡藩老職中川栖山や藩士小河一敏からの書状、岡藩士の誓紙、胤康の著述および写しと推察される冊子、その関心を窺わせる兵法・卜占・和算などの書物、また若干の所持品などである。これらは幕末動乱期に隣藩へ影響を及ぼしたと思われる胤康に関わる、宮崎県内に残された貴重な資料類である。

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