宮崎県佐土原町(現宮崎市)に旧佐土原藩医飯田洞敬の次男として生まれる。本名幹夫、
[雅号]は梅庵。明治29年に医師根井助太郎の養子となる。同31年旧制県立宮崎中学校に進むが、病気のため4年で中退する。その後、延岡出身の
[南画]家
[鈴木月谷]に師事し、
[花鳥]画や
[山水]画を学ぶ。それと平行して宮崎市で表具の技術を学んでいる。明治41年に上京し、
[南画]家
[村上委山]に
[花鳥]画を、同じく
[木村香雨]に
[山水]画を学ぶ。約1年の修業を終え明治42年帰郷、表装の仕事のかたわら絵を描き続けた。大正13年からは宮崎市の
[南画]家
[佐藤小皐]に絵を見てもらう。絵を描き始めると1日中でも描いており、1か月近く家を空けて写生に出かけることもあったという。
[南画]の画風を追求し続けた。佐土原町にて没。