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交差する歴史と神話みやざき発掘100年

東アジアの視点から
~地下式横穴墓との関連~
Wider East Asian context: Connections with underground tunnel tombs

西都原4号地下式横穴墓

西都原4号地下式横穴墓

 縄文時代晩期に、朝鮮半島西南部で最盛期を迎えた支石墓は、上部構造は弥生時代には消滅するが、下部埋葬施設としての箱式石棺は北部九州を中心に中国地域へも分布を広げる。4世紀代には九州西北部の箱式石棺をベースにして板石積石室墓が生み出され、南下して鹿児島県北部、内陸部は熊本県人吉盆地から宮崎県都城盆地の一角まで分布を広げた。

 地下式横穴墓に先立って誕生した板石積石室墓は、内陸部において地下式横穴墓の誕生にも影響を与えた。えびの盆地において顕著に見られる竪坑上部板石閉塞の地下式横穴墓である。地下式横穴墓も板石積石室墓も、いずれも南九州固有の墓制として営まれたが、閉鎖的な存在ではなく、朝鮮半島との相互交流の中で創出され、独自性を強めていった。

 東アジアを広く展望し、朝鮮半島との関係の中では、列島独自の墳形とされる前方後円墳が、朝鮮半島西南部(旧馬韓・百済)の栄山江流域を中心として、現在までに15基確認されている。加えて、百済の都である公州や扶余において、これもまた列島独自とされる地中に空洞の墓室を穿つ地下式横穴墓ないしは横穴墓の存在が確認されている。

 前方後円墳の単発的築造は、その被葬者の性格を解く大きな鍵であるが、大きくは百済人とみるか倭人とみるかに二分され、その性格には多くの考え方が提出されている。ただ、2基の前方後円墳が築造されたのは月桂洞のみで、他は単独の存在であり、継続的な系譜を持つことがないこと、また造墓集団の問題からは、1基の築造には少なく見積もっても延べ数万~数十万人の人員が必要であり、単発の一時期であったとしても、そうした人員を動員・統括する被葬者とその支持者の存在を見なくてはならない。

一方、地中に空洞の墓室を穿つ墓制については、地下式横穴墓を起源とすること、殊に24基が群集して検出された丹芝里遺跡(公州市)の構造には、地下式横穴墓や初期横穴墓に近いものが見られる。ただ、前方後円墳の存在と大きく異なる点は、公州・扶余という都に近接する立地であり、その造墓は家族単位で遂行しうる墓制であることなどである。こうした前方後円墳や地下式横穴墓の存在は、日向(南九州)の存在を抜きにしては理解することはできない。南九州の固有性は、単に閉鎖的に閉ざされたものではなく、むしろ東アジアの大きな歴史のうねりの中にあったことを実感させる。

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