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展示情報

公開中の遺物

テーマ展示①県北の遺跡 「赤木遺跡第8地点」

   赤木遺跡は、五ヶ瀬川流域に広く分布する阿蘇火砕流堆積物が、五ヶ瀬川本流やその支流行縢川によって浸食されできた東西方向の丘陵の、ほぼ頂上部に位置しています。そのなだらかな丘陵は標高約49m であり、丘陵の基底部には湧水が存在しています。
 この遺跡は、昭和60年(1985年)に保育園建設に伴い延岡市教育委員会が実施した発掘調査で後期旧石器時代のナイフ形石器や細石器が発見されて以来、複数回の調査が行われ、そのたびに貴重な成果が得られた宮崎県内でも有数の旧石器時代の遺跡です。
 北方延岡道路建設に伴う赤木遺跡の調査地点は、第8地点とされ、丘陵の東の端にあたる場所です。宮崎県埋蔵文化財センターは平成15年(2003年) ~平成18年(2006年)にかけて3次の発掘調査を実施しました。

竹ノ内遺跡(宮崎市)

    竹ノ内遺跡は、清武町内を東に向かって流れる清武川右岸の標高約60mのシラス台地のへりに位置しています。町内の川沿いには河岸段丘が発達し、台地の崖面には、わき水がみられ、遺跡立地の好条件が備わっています。町内の遺跡の大半はこの段丘面に形成されていまず、本遺跡は、一般県道清武インタ一線道路改築工事に伴って調査が行われました。本遺跡は、旧石器時代、縄文時代早期・後期・晩期、弥生時代、古墳時代、古代、中世、近世にまたがる複合遺跡でした。調査の結果、本遺跡は長い期間の人間の営みの中で縄文時代後期に最盛期があったと考えられます。各時代に多数の遺構を検出し、遺物量はコンテナ667箱も出土した県内有数の遺跡です。遺物の中には、岩偶、石偶、土偶やサンゴやヒスイでできた装飾品など県内でも報告例の少ない貴重な遺物が出土しています。

大窪第1遺跡(都城市)

 大窪第1遺跡は都城市高城町有水に所在し、大淀川右岸の河岸段丘上に立地する遺跡です。発掘調査の結果、縄文時代後晩期から平安時代までの多くの遺構と遺物が確認されました。なかでも、古墳時代の集落跡内では、竪穴建物跡4軒を確認し、そのうち1軒からは鞴の羽口と金床石といった鋳造関係の遺物がみつか りました。また平安時代の調査では、大量の土師器とともに土器焼成土坑や鞴の羽口、鉄滓、焼土といった生産遺構がみつかり、大淀川とともに暮らした人々の生活が明らかになるなど貴重な調査成果を得ることができました。

西下本庄遺跡(国富町)

 西下本庄遺跡は本庄高校の運動場整備事業に伴い発掘調査が行われました。本庄川左岸にひろがる河岸段丘の南西側の中段にあたる標高約35m位置しています。また、上位に広がる国富町市街地の段丘面には本庄古墳群が立地しています。
 縄文時代では、後期の竪穴住居跡が5軒みつかったほか、早期や晩期の土器が出土しています。古墳時代については、中期から後期にかけての竪穴住居跡25軒、掘立柱建物跡6棟がみつかりました。近接する本庄古墳群との関連が予想される集落です。古代では掘立柱建物跡12棟や南側に開口する方形区画溝の一部とみられる溝もみつかっているほか、国内外の広域的な交流をうかがわせる遺物が多数出土しています。中世においても大型の掘立柱建物跡や区画溝、豊富な遺物が出土していることから、古代から中世においては、公的な施設もしくは有力者の居館があった可能性があります。

下那珂遺跡(宮崎市)

 石崎川の左岸、宮崎平野を眼下に望む標高約40mの城ヶ峰台地南端(宮崎県総合農業試験場の敷地内)に位置しています。 弥生時代後期から終末期にかけての120軒あまりの竪穴住居跡がみつかった、この時期における県内有数の大集落遺跡です。注目される遺物として、県内最多となる約150点に及ぶ石包丁が出土しています。石包丁は収穫の道具とされており、ひもをかけるための穴があいていたり、えぐりがついていました。そのほかに青銅製の鏡(虺龍文鏡)の破片がみつかっています。

筆無遺跡(都城市)

 筆無遺跡は、都城市今町の大淀川に面した低地を西方に望む標高約150~155m前後の台地縁辺部に立地しています。この遺跡は縄文時代晩期から近世後半にかけての遺構が重複して営まれており、一部は古い遺構を破壊しています。調査の結果、古墳時代を除く縄文時代から近世後半までの遺構・遺物が数多く見つかりました。なかでもB区で確認された平安時代末期から中世初頭の掘立柱建物跡や居住空間を区画する溝、周溝墓などが注目されます。また、A区では中世の畝状遺構(畠跡)なども見つかっています。

テーマ展示 保存処理とは

 埋文センター分館では、発掘現場から出土した金属製品や木製品など壊れやすい遺物の保存処理を実施しています。今回の展示では、木製品のトレハロース法による保存処理などについて紹介しています。

体験コーナー

 宮崎県埋蔵文化財センター(分館)では、展示室に体験コーナーを設置しています。

【写真:左】体験コーナー

【写真:中央】実際の土器についている文様(もんよう)を、貝殻や縄をつかってねんどにつけます。道具によっていろいろな文様(もんよう)ができます。

【写真・右】実際の土器などの遺物をもとにした「どきパズル」です。現在は、西ノ別府遺跡(川南町)の銅鏡と尾花A遺跡(川南町)の弥生土器の2つのパズルを設置しています。「どきパズル」は定期的に入れ替えています。意外と難しく、子供だけでなく大人の方もはまるようです。

宮崎学園都市遺跡群~堂地西遺跡・堂地東遺跡

 宮崎学園都市遺跡群は、現在の宮崎大学、学園木花台地区に所在した遺跡で宮崎学園都市開発整備事業にともなって、宮崎県教育委員会が1980(昭和55) 年から1987(昭和62)年の8年を費やして発掘調査を実施しました。

 発掘調査は23箇所(遺跡)について実施され、調査対象面積は約40㏊におよんでいます。遺跡群は、宮崎大学が立地する宮崎市南部の大字熊野から清武町大字木原にまたがる標高15mから20mの洪積台地を中心に分布し、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、古代、中世、近世の全時代にわたる遺構や遺物を確認することができました。

 調査は、これまでにない大規模なもので、面的な調査ができたので、質、量ともに豊富な考古学的知見を得ることができました。 出土した遺物は、宮崎県総合博物館、西都原考古博物館に一部を常設展示しているほかは、当センターに収蔵しており、学校などを対象とする各種の講座や展示会で活用しています。

 今回は、旧石器時代の石器などの出土品が全国的にみても代表的な遺物である、旧石器時代から縄文時代はじめの遺跡である堂地西遺跡と、弥生時代後期の集落として県内を代表する堂地東遺跡の2つの遺跡の遺物を展示しています。堂地西遺跡は、ナイフ形石器・スクレイパー・剝片尖頭器などを、そして堂地東遺跡は、磨製石斧・弥生土器・白磁皿などを展示しています。

笹ヶ崎遺跡(都城市)

 当時貴重だった龍泉窯(りゅうせんよう)系青磁・白磁・天目茶碗をはじめとする陶磁器類がB区を中心として数多く出土しており、当地が特定身分者関連の場所であったと推測されます。また、古代の遺物として、D1区の包含層から出土した石帯の一部である石製銙具(かこ)の丸鞆(まるとも)の存在からも、古代段階より笹ヶ崎遺跡とその周辺地域が「地域有力層の居館跡」や「何らかの公的機関跡等を」形成していた可能性を指摘できます。

現在の展示状況

平成29年10月の展示状況

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