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展示情報

公開中の遺物

百塚原古墳群(西都市)

宮崎県は、平成25~28年度にかけて県内に残る古墳の保護活用を進めるため、古墳本来の規模や形状・造られた時期などを把握する「重要古墳等保護活用推進事業」を行いました。
その継続事業である「みやざきの古墳保護・活用事業」では平成29~令和元年度の3年間、重要古墳等の調査(確認調査、墳丘測量調査、地中レーダー探査)、古墳データベースの作成(悉皆調査)、古墳の保護啓発活動を行いました。

今回の展示では、県内重要古墳の調査のうち、百塚原古墳群(西都市)資料を中心に、これらの事業成果を皆さんにわかりやすく説明しています。

百塚原古墳群は、特別史跡である西都原古墳群の西側の丘陵上に分布する古墳群です。

古墳群内からは国宝に指定されている金銅製馬具類(五島美術館蔵)が出土したとされており、宮崎県において特に重要な意味を持つ古墳群といえます。

今回の調査では、1号墳とその周辺および8・9・12・38号とその周辺について確認調査・地中レーダー探査を行いました。その成果および資料を展示しています。

 

※鉄製品は現在資料保護のため展示しておりません。

 

 

 

松下遺跡(都城市)

この遺跡は月野原(つきのばる)台地と横市川北岸の間に広がる河岸段丘上、標高147~150mに位置しています。遺構は、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が確認できました。その集落内からは、住居を同じ場所に建て替えたと考えられる痕跡のある住居や、住居内から炭化材が多く確認できる焼失住居(家が燃やされた痕跡のある住居)、マツリに使われた可能性のある周溝状遺構などがみつかっています。このほか、古代(奈良・平安時代)の深さ最大1.9mの大きな溝や中世~近世と思われる小溝状遺構(畠の畦間)もみつかっています。遺物は、弥生時代から古墳時代を中心に、幅広い時期のものが出土しました。

  

竹ノ内遺跡

竹ノ内遺跡は、清武町内を東に向かって流れる清武川右岸の標高約60mのシラス台地のへりに位置しています。町内の川沿いには河岸段丘が発達し、台地の崖面には、わき水がみられ、遺跡立地の好条件が備わっています。町内の遺跡の大半はこの段丘面に形成されていまず、本遺跡は、一般県道清武インタ一線道路改築工事に伴って調査が行われました。本遺跡は、旧石器時代、縄文時代早期・後期・晩期、弥生時代、古墳時代、古代、中世、近世にまたがる複合遺跡でした。調査の結果、本遺跡は長い期間の人間の営みの中で縄文時代後期に最盛期があったと考えられます。各時代に多数の遺構を検出し、遺物量はコンテナ667箱も出土した県内有数の遺跡です。遺物の中には、岩偶、石偶、土偶やサンゴやヒスイでできた装飾品など県内でも報告例の少ない貴重な遺物が出土しています。

天神河内第1・第2遺跡

天神河内第1・第2遺跡は、宮崎市と都城市の境を流れる境川の源流から4.5kmほど下った右岸、標高約280mの南北に長い河岸段丘上にあり、現在は天神ダムになっています。

発掘調査の結果、縄文時代から中・近世にかけての遺跡であることがわかりました。遺構は、縄文時代前期の集石遺構・配石遺構が24基、中世から近世の掘立柱建物跡50棟、土坑128基、石塔群がみつかりました。特に縄文時代は、県内では出土例の少ない縄文前期から中期の土器が良好な状態で出土し、県内山間部での縄文文化の広がりを考えるうえで貴重な資料となりました。

曽井第2遺跡

 

曽井第2遺跡は、大淀川と清武川支流の古城川に挟まれた緩やかな丘陵の東斜面の裾部に位置します。

発掘調査の結果、中世から近世の掘立柱建物跡や井戸跡、たくさんの石塔がみつかったことから、この遺跡は明治初期に行われた廃仏毀釈によって壊された瑞雲寺もしくはその関連施設である可能性が高いと考えられています。また、井戸枠に使われた木板には、井戸の水が涸れないように、と水神である八大竜王への守護を願う祈りの言葉が記されており、当時の人々の信仰のようすがうかがえます。

現在の展示状況

令和2年12月

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